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2009年04月04日

不法投棄は誰が悪い

昨日の出来事です。夕べは酒を呑んで正体もなく眠りこけてしまっておりましたので、今日になって更新しております。

2日前に無事今年の籾播きも完了しまして、昨日は竹やぶの片付けに取り掛かっておりました。先月切り倒しておいた竹ですが、畑の竿などに使えそうなものは枝を落として取っておくように、その他のものは焼きやすいようにまとめて、といった感じで作業を進めております。

午後になってからのことです。竹の葉などをかき集めておりますと、その下から捨てられた空き瓶(割れてます)が出てきました。拾ってみますとまだ他にも出てきます。ということでそこから空き瓶拾いに転じたわけですが、これが出てくる出てくる。結局夕方まで半日つぶれまして、買い物袋一杯分くらいの空き瓶の欠片が回収されました。

数年前から毎年竹やぶを少しずつ整理しているわけですが、新たな箇所に踏み込むと必ずといっていいほど何かしらのゴミが出てきます。今まで拾い集めたものだけで一世帯分の家電製品は充分揃いました。

昨日も空き瓶を拾いながら考えていたのですが、こうした周囲から見えにくい場所にゴミを捨てるということは何でおきるのでしょうか。ゴミを捨てる人間が非常識だとか言う非難は簡単ですが、何も問題解決にはつながりません。なぜそういうつまらぬ人間がゴミを捨てようとするのか、ということを考えなければ。

まず一番安易な理由としては竹やぶがあるから捨てやすい、という見方。一見もっともらしいのですが、竹やぶをきれいにしても彼らは別の場所を探すだけです。

次にゴミになるようなものを作り出して金儲けをする企業が悪いという見方。これはかなり真理に近づいてきておりまして、確かにそういうもの自体を作り出さなければゴミ問題は無くなります。ですが、それを作った企業だけが悪いのでしょうか。

なぜそれら企業はそんな製品を作り出しているのか、というところまで考えてみると、結局は自分たちがそういう製品を買いたいと思っているからです。

何事もそうなのですが、人のせいにして批判ばかりすることは簡単ですが、よくよく考えてみると全て自分たち一人ひとりの何気ない消費行動や生活様式が全ての問題を生み出しているわけです。

そう考えると他人を非難する前に自分自身改める所はいくらでも見つかるものです。そしてそのゴミを捨てるということに対する問題意識の起点は「自分の土地に捨てられたら嫌な気がするから」などという自己本位の発想ではなく、自分たちの生きている大自然全体の摂理に反するか否かという「全体からの視点」のみに従って判断されなければならないのです。

私も文明社会の産物を利用しながら生きてます。ということで自分の田んぼにゴミが捨てられていてもただそれを拾うということしか出来ないわけです。確かにそんなことをする人間はカスだと思う気持ちは強く持っていますが、だからといって振り返ってみると私もその原因の一端を担っている以上黙ってゴミを拾い続けることしか出来ないんですね。

ゴミの減量だとか、ゴミ袋の有料化だとか、資源のリサイクルだとか、ゴミにまつわる制度は数限りなく議論され、また実践されてはいますが、決定的に改善されない理由はこういうところにあるのかもしれません。

2009年04月04日 16:55

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